この地に根をおろしたとする説もある

フィレンツェを離れ

ローマ軍が圧倒的で
水道橋がローマを救う古代の文明、たとえばエジプト文明、黄河文明、メソポタミア文明。
全ての古代文明はみな水源の近くに国家が建築されたのです。繁栄に欠かせないものがやはり水源だったのですね。国家建築、ところが、また国家の滅亡もこの水源が元となったのです。
病気の蔓延、そしてこの根源が汚染された水源となるのでした。この事実に着目した古代ローマはなんと、川を水源とするのではなく、山中に湧く清い水を水源とすることに決めたのです。
都市から遠くはなれた清い水を確保するために、水道橋を敷くことにしたのです。
この発想の転換が古代ローマの繁栄の基礎となるのでした。さらにローマ水道は非常に精巧に作られており、厳密な許容誤差内で建築されていたのです。
例えばフランスのボンドゥガール。通常規格で、1キロあたり34センチの傾斜、ということは50キロメートルの距離で垂直方向にわずか17メートル下がるだけ!という精密さ。完全に重力に頼っており、非常に効率よく大量の水を運んでいたのでした。
なんと同水準の水道が新たに建築されるのは19世紀後半になってからとなるのです。
そしてこの優れた建築技術がローマ帝国を大国に築き上げる要因となるのでした。
そしてパクスロマーナこれはローマによる平和という意味で、帝国は治安を守るために数々の平和策を起用するのでした。
そのひとつとして、属州からの人材も政治に起用していったのでした。
なんと、後には属州植民地出身の皇帝まで出現するのです。
さて、こんな素晴らしいローマ人と日本人との共通点とはなんなのでしょうか?
まずはお風呂好き、温泉好き。
イタリアのアブルッツォ州に存在していたという驚きは

このルールが
今のイタリアでは全くと言っていいほどお風呂、温泉の文化は消え去ってしまっております。
しかし、395年のローマ帝国東西分裂により、東に文化が飛び火いたします。
そう、トルコ。このトルコに残るハマム、これが実は古代ローマ人のお風呂好きの名残なのでした。
そして室内は質素、でもモザイク、壁画などを多用し豪勢な室内に変えてしまいます。
そう日本の質素を重んじる文化、しかし障子、掛け軸などに芸をちりばめる日本の文化と似ていないでしょうか?
さらには食文化。イカ、うなぎ、など魚好きなローマ人。タコ、イタリア、ギリシャ以外にこれほどまでにシーフードを多様するヨーロッパの国はあるでしょうか?
たとえば世界中に広がるユダヤ人。もちろん彼らは鱗のない海洋物は食しません。聖書で禁止されているのです。その彼らが経済を牛耳るアメリカ。これが、外国の方はタコなど絶対に食べない!!·たこ、イカの墨??とんでもない!という説がある理由なのです。企業化の才能。エジプト、ギリシャの学者が数学技術、天文学を発明します。それを一般化して絡み合わせてカレンダーにしたのがローマ人。

ローマからの死の報せは

これぞ文明化建築面においても下記に見るようなアーチヴォールドと言われる強固な建築技術を発見したのはエトルリア人。
そしてもともとエトルリア人が定住していたその地を制覇したのがローマ人。
これが故に彼らの技術を採用し活用したローマ建築。下記のポンペイの風呂場の内部のように、ヴォールドを多用することにより、屋根の重力を分散させ、後世に残すことができたのです。
このアーチ、カレーをインドのものではなく日本のものにしてしまう日本人。
テレビ、など日本語英語を創ってしまう日本人。とても似ていないですか?ほら、

ビザンツ帝国から十字軍

西ロ-マ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島今のトルコのアジア側を中心とした国家となっていきました。
首都はコンスタンティノポリス現トルコ領イスタンブール
当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていました。
では476年西ローマ帝国が崩壊したにもかかわらず、なぜ東ローマ帝国はゴート族、そしてゲルマン民族からの攻撃を避けることができたのでしょうか?
それは、アナトリア·シリア·エジプトのような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな穀倉地帯を保持していたことが一つ。
対する西ローマ帝国は穀倉地帯であるシチリアを、ゲルマン人に奪われたのでした。
さらにアナトリアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいたこと。
そして西ゴート人や東ゴート人へ貢納金を払って西方へ移動させたことなど。
ただし、これによって西ローマ側の疲弊は進んでしまうのですが。
パレルモから海岸線に沿って

不法入国したアルバニア人の子ども達に

さらに首都コンスタンティノポリスに難攻不落テオドシウスの大城壁を築いていたことなどが挙げられます。
では崩壊後の西ローマはどうなったのかと申しますと、西ローマ帝国を倒したゲルマン人傭兵の隊長のオドアケル。
のちに彼はイタリア王となり、これが国の名前としてのイタリアの走りとなります。
しかし西ローマ帝国は滅びようが、440年ローマ司教レオ1世が、ローマ司教の首位権教皇権を主張するなどキリスト教は生き続けるのです。
そして493年にはこのオドアケルが滅ぼされます。この時代、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国西ゴート王国415年~711年
この西ゴート王国ともとは同じ民族の東ゴート族の王がイタリアに侵略、そして東ゴート王国が成立497年~553年

ヨーロッパ各地からたくさんの客が訪れるリゾート地だ

さらに553年には東ローマ帝国が全土を掌握し、イタリアは80年ぶりにローマ帝国領として奪還されたのでした。
しかし、帝国にとってもはやイタリアは1属州に過ぎず、ローマ帝国のイタリアに対する支配力は大きく低下したのです。
さて、東ローマ帝国。7世紀、この東ローマ帝国近郊のサウジアラビア、メッカにてイスラム教が発祥します。
そして徐々に今の中近東でイスラムの力を広げてゆくのでした。そしてとうとう、トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領されてしまいます。
ヨーロッパから聖地エルサレムに巡礼するためには、どうしてもアナトリア半島を通過しなくてはい行けません。
この聖地への道が異教徒に支配されることはどうしても避けたい。そこで、その時代の東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス在位1081年-1118年が、1095年ローマ教皇に救援を依頼したことが歴史に名を残す十字軍の発端となるのです。
この時皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかったですが…十字軍とは、中世(西ローマ帝国滅亡から東ローマ帝国滅亡までの5世紀から15世紀の間)に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことです。
このとき、大義名分として十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍でありました。
十字軍に参加した諸侯は、宗教的な動機と共に、戦勝時の利益への目算も当然あったであろうと考えられています。

ローマ帝国やスペインに翻弄されることになります

イタリア人この場合は

なぜならば、宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、第锏十字軍に至っては、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス現イスタンブールを攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈しているのです。
のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告までされています。
また、十字軍は純粋に軍人だけで構成されていたわけではなく、従者のほかにも巡礼者や女,子供、娼婦など雑多な人間が混じっていました。
エルサレム到着後、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていたのですが、圧倒的多数の現地住民からしてみると十字軍国家は異端の存在であり続け、真に根付くことはなかったのでした。

      イタリア人のグループが何組も登っており
      ヴェネツィアの捕虜となり往時の威容を想像させる
      ローマに戻るなら軍の指揮官を辞任しろと
9月 2, 2018

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