この日ようやく出会ったのだっあの白く輝く大理石のギリシャ彫刻ではない

ローマ帝国滅亡までのほぼ11実は東

イタリア人の生活もこの数十年はすごい勢いで変わってきている
直線のものはギリシャ時代のもの、そして曲線のものはローマ時代のものがほとんどなのです。
奴隷にも寛容ローマの兵はローマ市民であることが条件でした。そして奴隷でさえものちに市民権が与えられたのです。補助兵として25年働いた者には市民権が与えられたのです。これがギリシャとの大きな違いだったのです。例えばギリシャのアテネの市民権。アテネの市民権を得るためには両親ともにアテネ生まれでなくてはいけないのです。
たとえば有名なギリシャの哲学者、ソクラテス。彼はアテネ市民として法を厳守しますが、有名な言葉悪法も法なりと残しますそしてもう一人の有名な哲学者、アリストテレス。
彼は古代ギリシャの哲学者、しかしマケドニア出身のため、アテネの市民権を得ることができなかったのです。
先のマケドニアのアレキサンダー大王の家庭教師としても有名なアリストテレス。
この閉鎖的な古代ギリシャの限界を感じ、アレキサンダーは開国派になってゆくのでした。
小税で物流をうるおすのちには地中海周辺全てを制覇した広大なローマ帝国。
しかし、なんと税関はたったの10カ所だったと言われております。
過去の軍用路が通商路となり、さらに小税のためによく物が流れ、経済が活性化するのでした。
パンとサーカスよく耳にするパンとサーカス。ですが、ただで食料と娯楽を与え続けていたらもちろん市民は陋弊してしまいます。
ここがローマのすごいところ。

この時、宮殿はすでに長く打ち捨てられており、廃墟と化していました。
ところがサロナからの避難民は建造物内部を改造し、ディオクレティアヌス宮殿は徐々に新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造されてゆくのでした。
今日、宮殿はスプリト市の内核として存在しており、今も宮殿の内部には商店や市場·広場、住宅があり市民が暮らしているのです。
過去の城壁それ自体も部屋として改築されていたり、かつてのディオクレティアヌス帝霊廟は教会に改築されていたり、町中の銀行の中にそのまま当時の柱が残っていたり、または宮殿を囲む城壁をそのまま都市壁として保存したり、地下室を市の食料庫に転用するなど、遺跡をうまく利用した独特の街並みとなっているのです。
クロアチアを訪れていただくと、このスブリトがきつと一番印象に残る町となることでしょう。

コンスタンティアヌス帝

ディオクラティアヌス帝から数代後、その時代のローマ皇帝は大変若いコンスタンティアヌス帝。
戦いで苦戦しておりました彼のもとに神がおりたったのです。「コンスタンティアヌスよ一十字架をもって戦えすればお前は勝つであろう」と。
まさかとは思ったのですが、軍に十字架を持たせて戦わせると、なんと戦いに勝ってしまったのです。
そこで彼は、今まで迫害していたキリスト教をなんと擁護し始めたのです。
そんなことが元老院にすんなりと受け入れられる訳がございません。
すると若い皇帝は「うるさいお前達だまっていろもうこんなところはいやだ」と、都をローマから、今のトルコ、イスタンブールへ遷都してしまったのです。
さらに新しい都の名前を、自分の名前からとり、のちにコンスタンチノポリスと改名。
それが後にイスタンブールへと変化してゆくのでした。これがかの有名な紀元後395年のローマ帝国東西分裂。これにより、西はローマを中心に西ローマ帝国、そして東はコンスタンチノーブルを中心に東ローマ帝国となっていくのでした。
このコンスタンティアヌスの決断の裏には時代背景の変化というものが存在していたのでした。
帝政時代はなにしろ領土を増やすために軍事力が必要でした。その軍事力を保持するためにはどうしても奴隷制度が必要だったのです。
しかしイエスは人類は皆平等と唱える。よってキリスト教を迫害してきたローマ帝国の歴史。

カトリック教会が求める倫理規定もやや弱められる結果となっていた

しかし、帝政時代が長引くにつれ、さらに領土が広がるにつれ、徐々に戦争をしなくてもいい平和な時代がやってきたのです。
この流れのもと、奴隷の必要性が薄れてきたのでした。そして徐々にキリスト教を容認する流れが出来上がったのでした。世の中の流れを察知していたローマ帝国は、キリスト教を容認するタイミングを計っていたのですね。
そしてちょうどそのタイミングに皇帝だったのが、コンスタンティアヌス帝であり、彼はこれにより後世に名前を強く残すことになるのでした。
その後、ローマの属国であった、アルメニア王国やグルジアが次々とキリスト教を国教とする決断を下すのでした。
そしてとうとうローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教に定めるのでした。
そして440年、ローマ司教レオ1世が、ローマ司教の首位権教皇権を主張する。
その後、西ローマ帝国には西ゴート族が攻め入り占領。さらにゲルマン民族の大移動により476年西ローマ帝国崩壊。また大地震のため、町の中心地であったフォロロマーノなどの破壊が始まります。
そしてキリスト教を擁護しはじめた時代、流行に敏感な貴族たちが教会、さらにもともと沼地に創られたこれらの遺跡。
修道院をつくるためにこのフォロロマーノなどの神殿や宮殿を破壊し、大理石をはぎ取り、建材として使用し始めたのです。
崩壊とともに土砂、がれき、ゴミで埋もれ始めるのですそして1803年、フランスのナポレオン時代に軍により発掘が始まるのでした。
これが、下記の写真のトッレアルジェンティーナシーザーが暗殺されたところなどが今地上より地下に存在する理由なのです。
そして残された東ローマ帝国。

タリアコッツォに立っている


イタリア語の語感が良いからでイタリア人の多層的なものの見方スイスは隣町本文でもよく触れたがのちにビザンチン帝国と名を変え、ローマの文化を受け継いでゆくのでした。
そして440年、ローマ司教レオ1世が、ローマ司教の首位権教皇権を主張する。
その後、西ローマ帝国には西ゴート族が攻め入り占領。さらにゲルマン民族の大移動により476年西ローマ帝国崩壊。また大地震のため、町の中心地であったフォロロマーノなどの破壊が始まります。
そしてキリスト教を擁護しはじめた時代、流行に敏感な貴族たちが教会、さらにもともと沼地に創られたこれらの遺跡。
修道院をつくるためにこのフォロロマーノなどの神殿や宮殿を破壊し、大理石をはぎ取り、建材として使用し始めたのです。
崩壊とともに土砂、がれき、ゴミで埋もれ始めるのですそして1803年、フランスのナポレオン時代に軍により発掘が始まるのでした。
これが、下記の写真のトッレアルジェンティーナシーザーが暗殺されたところなどが今地上より地下に存在する理由なのです。
そして残された東ローマ帝国。のちにビザンチン帝国と名を変え、ローマの文化を受け継いでゆくのでした。
この時代に流行ったものが、彫刻。このヘレニズム文化の彫刻がギリシャへとつながり、多くの神の彫刻を後世に残すのでした。
このギリシャの彫刻を今度はローマがまね、さらに直線から曲線に進化させて自分たちのものにしてゆくのでした。
美術館を訪れた際にご覧戴ける、古代の彫刻。

この大聖堂ばかりか

直線のものはギリシャ時代のもの、そして曲線のものはローマ時代のものがほとんどなのです。
奴隷にも寛容ローマの兵はローマ市民であることが条件でした。そして奴隷でさえものちに市民権が与えられたのです。補助兵として25年働いた者には市民権が与えられたのです。これがギリシャとの大きな違いだったのです。例えばギリシャのアテネの市民権。アテネの市民権を得るためには両親ともにアテネ生まれでなくてはいけないのです。
たとえば有名なギリシャの哲学者、ソクラテス。彼はアテネ市民として法を厳守しますが、有名な言葉悪法も法なりと残しますそしてもう一人の有名な哲学者、アリストテレス。
彼は古代ギリシャの哲学者、しかしマケドニア出身のため、アテネの市民権を得ることができなかったのです。
先のマケドニアのアレキサンダー大王の家庭教師としても有名なアリストテレス。
この閉鎖的な古代ギリシャの限界を感じ、アレキサンダーは開国派になってゆくのでした。
小税で物流をうるおすのちには地中海周辺全てを制覇した広大なローマ帝国。
しかし、なんと税関はたったの10カ所だったと言われております。
過去の軍用路が通商路となり、さらに小税のためによく物が流れ、経済が活性化するのでした。
パンとサーカスよく耳にするパンとサーカス。ですが、ただで食料と娯楽を与え続けていたらもちろん市民は陋弊してしまいます。
ここがローマのすごいところ。

ルネサンス期の歴史や人物を取り上げた作品も大変面白いので


つまりグッド·イブニングと言われて最初は面食らったものです
月に一度、市民を死なせない程度に、貧民にのみ小麦を配るのです。
この小麦をパンにするにはどうしてもお金が必要になります。そのお金を手に入れるためには、どうしても働かなくてはいけない!
素晴らしいですよね?国民を骨抜きにしないこのスタンス。さらに、サーカス。これはたとえばアウグストゥス統治時代44年間、この間に行われた無料の娯楽はたったの40回。
もちろん政治家による人気稼ぎであり、また世論調査を兼ねていたとも言われております。
そうなのです、ローマ人は属州からの税で遊びほうけていた!というのは事実ではなかったのです。なぜならば、属州も全く同じシステムに沿っていたからです。これがゆえに、ローマ帝国が支配していた全ての町は同じ造りをしているのでした。
闘技場があり、教会があり、水道橋、そして塀に囲まれた町並み。今のヨーロッパ、どこの町にいっても同じ造りであることにお気づきになりましたでしょうか?
芸術性よりも実用性たとえば劇場下記に見る、イタリアシシリア島のタオルミーナの劇場。
実はギリシャ人により建築された劇場。とくにこの劇場は考えに考え尽くされた立地で、観客席から舞台を眺めると、俳優が演じる舞台の裏にはシシリア島唯一の活火山エトナ山が見えていたのです。
ギリシャ人にとっての舞台は神に捧げるためのものであり、あくまでも芸術性、神秘性を重視していたのでした。
ところが、敵の物でもいい物は吸収するローマ人。もちろんこの劇場も再利用いたします。ですが、ローマ人にとっての舞台は娯楽であり、俳優の声の拡散を避けるために、舞台裏の空間を壁で覆ってしまうのでした。

どんな田舎の小さなレストランに行っても余りお目にかからない

今ご覧戴ける写真は、いったんローマ人が築いた壁が再度破壊されている状態なのです。
ギリシャを制服したローマ、そしてギリシャの賢人を各家庭の家庭教師として雇用します。
そうすることによりギリシャの芸術、文化は教師を通して受け継がれていくのでした。
ローマは武力で制しギリシャは文化で制すといわれるのがこの所以です。
ローマのすごいところ、それは建築技術エジプト文化、ギリシャ文化のように、はじめは切り石を積み上げただけであったローマの建築物。
ところが彼らは強力な漆喰を開発するのでした。石灰岩を炉で焼いて石灰にし、砂を混ぜて水で練る。この漆喰を利用して、切り石を並べた上に化粧塗りをするのです。そしてここにポンペイ遺跡のような壁画を描いたのでした。さらに彼らはこの漆喰に火山灰を混ぜることにより、セメントのようにしてしまうのでした。
これが未だにローマの遺跡が世界中に残っている理由なのです。さらにはなんと大理石の化粧張りをすることにより、今までの文化をさらに進化させるのでした。
しかし、今ではこの大理石の化粧張りがすべてきれいに残っているところは、ローマのパンテオンくらいとなってしまいました。


イタリア人の多層的なものの見方スイスは隣町本文でもよく触れたが イタリアでは気合いで運転するという日本人もいたが 東京九段下にある