エノテカでの食事それぞれ店名に入っているのを見たことがある人もいることでしょう

ミラノのタクシーの名誉のために声を大にして叫びたい

ローマ人の仲間入りかもしれません
家柄もよく、卓越した法学者でもあったネルヴァは、先帝の恐怖政治から一転して元老院との協調策をとり、私財を投じて貧民に土地を分配した他、ローマに穀物倉庫をたて、穀物分配制度や水道の整備に努力するなど賢帝として名高いネルヴァ。
トラーヤーヌス53~117このネルヴァの養子がトラーヤーヌス。
スペインのローマ植民地で生まれた軍人で、初の属州出身の皇帝です。
自らは軍事的経験を持たず、軍の統帥に問題のあったネルヴァの養子かつ後継者に指名されます。
ネルヴァの死とともに自動的に帝位を次ぎました。教養こそ高くはなかったのですが、ローマの伝統を重んじ、元老院とよく協調して政治にあたり、最善の元首の称号を与えられます。
ローマ帝国の最大版図をなしえた皇帝としても名高いトラーヤーヌス。
東方よりローマへの帰途、現トルコにて病没。ハドリアーヌス76~138トラーヤーヌスと同郷で、彼の死の床で養子かつ後継者として指名された皇帝。
イギリスでよく耳にするのがこの皇帝の名前。なぜならば、彼の時代ローマ帝国最西端となる今のスコットランド直前まで帝国が広がり、このイギリスとスコットランドとの国境がこのハドリアーヌス帝の長城となるのでした。
アントーーーヌスピウス68~161ハドリアーヌスの信任を得て、養子となりそして帝位を次いだ者。
彼の名のピウスはこのときの元老院が送った、敬虔なる者という称号です。
彼の統治は穏健で元老院をよく尊重し、慈善をほどこし、同時代人の賞賛する太平の世をもたらすのでした。

日本にも円形のアリーナと呼ばれるスタジオが多々ございますよね?
さて、円形の闘技場、このアリーナという言葉は、実はこのローマ時代の闘技場から来ているのです。
では、アリーナとは何をさしていたのかと申しますと、、死闘が繰り広げられる闘技場の床は、剣闘士と猛獣から流れ出る血であふれていたのです。
この滑りやすくなった床に、滑り止めとして巻かれたのが砂。じつはこれがアリーナの語源なのでした.建設当時は大理石で覆われた豪勢なコロッセオ。
しかし今では大理石など見る影もありません。のちに建材としてむしり取られ、今のような悲しい姿となっております。
実はこのコロッセオは1744年まで採石場として使用されていたのでした。
しかしキリスト教迫害の地として聖地化され、やっと今の形を保つことができたのでした。

ポンペイの遺跡

この時代の大事件62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けました。
町はすぐに以前より立派に再建されたのですが、その再建作業も完全には終わらない79年8月24日にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けたのです。
翌25日の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まってしまいました。
降下火山灰はその後も続きました。軍人でもあった博物学者の大プリニウスは、ポンペイの市民を救助するために船で急行するのですが、煙または有毒火山ガスに巻かれて死んだことが甥の小プリニウスによる当時の記述から知られております。
当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙です。
これによると、小プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで季崩れ込んだのを見たと記録しているのです。
火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られております。
これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が季崩れのように流れる現象です。
さらに灰がどんどん積もり、海の水がみるみる引いていった後に津波がおきたのです。
小プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったのですが、窒息死するのでした。
二酸化炭素中毒によるものと現在では考えられております。

イタリア語を母国語とする人と話していたら

噴火直後に当時のローマ皇帝はポンペイに使者を出すのですが、市は壊滅したあとでした。
市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げていたのですが、火砕流が発生した時に市内に残っていて助からなかった市民が多くいたのでした。
発掘された肖像画、国立ナポリ考古学博物館にてフレスコ、噴火によって壊滅した後は二度と集落が作られることはなかったのですが、その後1000年以上という地名で呼ばれていたこと、そして散発的に古代の品が発見されていたので、下に都市が埋まっていることは知られていました。
そして決定的な発見が1594年から1600年に掛けて、サルノの谷を開墾の為に建築家メドニコ·フォンターナが円形劇場付近を掘り始めた時です。
採石の現場から幾つかの記録が発見されて、その記録からこの下に複数の町が眠っている事が決定づけられたのでした。
この時、1748年ブルボン家が統治していた頃、最初の発掘が行われ、その後1860年本格的な発掘が行われました。
ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にあったのです。
西暦79年、町の北西10kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていったのでした。
瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存したのです。

ローマ法王として選ばれた


ラクイラ人びとにこれからも力と癒しを与えるだろうパレルモから海岸線に沿って地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕したのですが、その美しさの秘密は実は火砕流にあったのです。
火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収したのでした。
この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのです。
ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになったのでした。
ポンペイは建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として知られています。
純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町です。
通りの両側には家と店があり、建造物は石でできています。居酒屋のメニューも残っていて、こう記されているのです。「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀などを用意してあります。」と79年の爆発のときに発生した火砕流の速度は時速100km以上であり市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになりました。
後に発掘されたときには遺体部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていたのです。
考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現しました。
母親が子供を覆い隠し、襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子も、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も生々しく再現されたのです。
この様子は火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示しています。
町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝えています。
焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えています。
コイン、そして保存状態のよいフレスコ画も、当時の文化をそのまま伝えています。
整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらず、きれいな水を町中に送っていたことが発見されました。
爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人ローマ市の住民の別荘も多くあり、ローマ人のバカンス先としてにぎわっていたことがよくわかります。

5賢帝時代

ネルヴァ30~98ネルヴァ帝からマルクスアウレリウスにいたるまでの時代を5賢帝時代と呼びます。

イタリア人もいるし

家柄もよく、卓越した法学者でもあったネルヴァは、先帝の恐怖政治から一転して元老院との協調策をとり、私財を投じて貧民に土地を分配した他、ローマに穀物倉庫をたて、穀物分配制度や水道の整備に努力するなど賢帝として名高いネルヴァ。
トラーヤーヌス53~117このネルヴァの養子がトラーヤーヌス。
スペインのローマ植民地で生まれた軍人で、初の属州出身の皇帝です。
自らは軍事的経験を持たず、軍の統帥に問題のあったネルヴァの養子かつ後継者に指名されます。
ネルヴァの死とともに自動的に帝位を次ぎました。教養こそ高くはなかったのですが、ローマの伝統を重んじ、元老院とよく協調して政治にあたり、最善の元首の称号を与えられます。
ローマ帝国の最大版図をなしえた皇帝としても名高いトラーヤーヌス。
東方よりローマへの帰途、現トルコにて病没。ハドリアーヌス76~138トラーヤーヌスと同郷で、彼の死の床で養子かつ後継者として指名された皇帝。
イギリスでよく耳にするのがこの皇帝の名前。なぜならば、彼の時代ローマ帝国最西端となる今のスコットランド直前まで帝国が広がり、このイギリスとスコットランドとの国境がこのハドリアーヌス帝の長城となるのでした。
アントーーーヌスピウス68~161ハドリアーヌスの信任を得て、養子となりそして帝位を次いだ者。
彼の名のピウスはこのときの元老院が送った、敬虔なる者という称号です。
彼の統治は穏健で元老院をよく尊重し、慈善をほどこし、同時代人の賞賛する太平の世をもたらすのでした。

水加減を調整したり


イタリア人日本人の有志が集まって公営のグラウンドを借り
マルクスアウレリウス121~180アント-ニーヌスの従兄弟で、アントーニーヌスとともにローマ帝国初の共同統治を実現させた賢帝。

四文統治

ローマ帝国最後のキリスト教迫害を行った皇帝、ディオクレティアヌス帝。
または史上初めて自ら退位し、隠居した皇帝ディオクレティアヌス帝。
彼の右腕は、今のイタリアシシリア島のピアッツァ·アルメリーナに、モザイクで埋め尽くした美しい宮殿を建てたあの皇帝マクシミアヌス。
シシリア島を訪れるツアーでは、必ずといっていいほどここを訪れます。
ここでモザイクとは?色違いの小片をこつこつと埋め込んでゆくもので、耐久性と耐水性に優れているため、プールの装飾素材として使用されていました。
特にローマでは、ギリシャで使用されていた石のモザイクを発展させて、大理石を砕いて使用しておりました。
この贅沢なモザイクは、床の素材としてまたは壁画として人気を得たのでした。
今現存する当時のモザイクとしてはこのシシリアのピアッツァ·アルメリーナ、そしてポンペイの作品が大変有名です。
さらに後年の作品として、ベネチア、サンマルコ大聖堂などで、金箔を使用したビザンチンモザイクとして今でも素晴らしいモザイクをご覧戴けます。
さて、このディオクレティアヌスとマクシミアヌスが2大統治をおこない、ディオクレティアヌスは後の東ローマ帝国中心地となる今のトルコ方面、そしてマクシミアヌスがイタリアとアフリカを統治しますさらにそれぞれの副帝としてガレリウス、コンスタンティウスがフランス/スペイン方面、そしてバルカン半島を統治しておりました。
これが四分統治。さて、このディオクレティアヌス帝。

ローマの姿を思い浮かべることです

彼が自ら引退後の隠居生活を送る場所として宮殿を建てたのが、そう、今のクロアチア、スプリトなのです。
ディオクレティアヌス在位:284年-305年は、305年に政治から引退しました。
彼は自分の故郷の近くに隠居用の宮殿を建てるよう命じ、今のサロナ近郊故郷ディオクレアにほど近い、海辺の町スプリトを建設の地に選びました。
宮殿はどっしりとした構造をしており、上記の写真でご覧戴けるように、ほとんどローマの軍事要塞のようでした。
宮殿南側は海に面し、その城壁は170メートルから200メートルの長さで高さは15メートルから20メートル。
この潤沢な宮殿と周囲には、当時8.000人から10.000人の住民が暮らしていました。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スプリトは東ローマ皇帝の支配下に置かれます。
しかし、639年頃にスプリト近郊のサロナが他民族の侵攻で略奪されると、住処を失った市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れました。
しかし数年後東ローマ支配がこの地域で復活するにつれ、市民は徐々に本土へ戻ってきたのです。
そして彼らはスプリトにあるディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択したのでした。
なぜならば宮殿が強固な要塞状だったからです。


パレルモから海岸線に沿って シエナの貴族ピッコロ-ミニ家が最初に目をつけ 聞こえてくるのは当然