シエナの貴族ピッコロ-ミニ家が最初に目をつけ

イタリアのお役所との付き合いも長く日本出発まで一週間という期限を控え

イタリアでは結婚式になくてはならないものだが
これを補うために作り出されたのが騎士修道会騎士団であり、1119年に創設されたテンプル騎士団と1113年に認可された聖ヨハネ騎士団、そしてそれにやや遅れて1199年に公認されたドイツ騎士団の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、実質的な常備軍としてキリスト教諸国家の防衛に当たったのです。
この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていきました。
これに対し、西からあらたに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあったダマスカス今のシリアの首都を攻撃するなど現地の事情を理解せずに軍事行動を起こすことも多く、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしていたのでした。
エルサレム回復を目指す本来の十字軍は1249年までで実質的に終わったと考えるべきでしょう。
1291年には最後の拠点アッコンを失ってエルサレム王国も滅亡し、全てのパレスチナはイスラム勢力下に入ったのでした。
そしてかの東ローマ帝国は、第4次十字軍によるコンスタンティノポリス略奪後、亡命政権をたてて抵抗。
そして約60年後首都奪回。しかし弱体化した東ローマ帝国を、モンゴル、セルビアなどが攻撃してくるのでした。
そしてとうとう1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲しました。

ナポリ風リゾットはないローマ帝国時代にはその重要な一都市となり

街の至る所に息を飲むような作品が並ぶ年を通して
東ローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中、2ヶ月近くにわたって抵抗を続けるのですが、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。
皇帝コンスタンティノス11世は部下と共にオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡するのでした。
これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになるのです。
2000年、ローマ教皇ヨハネ·パウロ2世は十字軍や異端審問などについて「異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。
これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。」として謝罪しました。さらに、2001年には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪しました。
これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換だったのです。

アヴィニョン捕囚からルネサンス

西ローマ帝国崩壊後も国教として存続するキリスト教。
そしてドイツのフランク王ピピンが756年ローマの教皇法王に教会の土地を寄贈したことが教会国家バチカンの繁栄の始まりとなるのです。
これにより、世界中のキリスト教の首都はローマになる訳ですね。

ラクイラ市に申し出た

この時代のイタリア国内は、各地に公国、王国が乱立し、相争う状態に陥ったことで政治的な統一性は失われていた時代です。
11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィア、フィレンツェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展するのです。
ミラノ、そんななか、安定したこのキリスト国家は唯一の集合体となり、12世紀、13世紀にはこの地をもとめて巡礼者が集まり、繁栄します。
ところが、1309年なんとフランス王によって教皇を南仏につれていくアヴィニヨン捕囚アナーニ事件が起きたのでした。
お気づきになりましたか?紀元前597年のバビロン捕囚、その言葉にかけているのです。さて、このアヴィニヨン捕囚、またの名をアナーニ事件に至った遠因は教皇庁自身にあるのです。
この時代ヨーロッパの大きな勢力と言えば、そう神聖ローマ帝国。800年、カール大帝がローマ法王により帝冠をうけ、さらにその後のオットー1世が帝冠をうけたことにより誕生した神聖ローマ帝国。
しかし時を経て、神聖ローマ帝国と教皇の意見相違が絶えなくなるのでした。
そして神聖ローマ皇帝憎しのあまりホーヘンシュタウフェン家を滅亡させ、シチリア王国をフランス王族に領有させ、神聖ローマ帝国を大空位時代にしてしまったためです。
これにより教皇権は強まったかに見えるのですが、フランス王と神聖ローマ皇帝がヨーロッパ世俗君主の2強であったのが、この大空位時代によりそのバランスが崩れ、圧倒的にフランス王が強力になっ見、てしまったのです。

交易の重心が大西洋に移るとともに経済的重要性をも手放した

イタリアでは民衆が武器を手に取り

フランス国内の聖職者たちも国内の聖職者の人事は教皇の命令を受けず自分たちで決定したいと考えていたため、過半がフランス王を支持したのです。
方、教皇はヨーロッパ的権威を持ちながらも実際は、イタリア内、そしてローマ内の貴族の勢力争いに強く影響を受ける不安定な立場でもありました。
それを利用してフランス王臣下のギョーム·ド·ノガレがローマの貴族コロンナ家と協力して教皇を捕らえたのがアナーニ事件です。
アナーニ事件で傷ついた教皇権は、次の教皇が短期間で急死した後、新たな教皇を1年近く選ぶことができず、結局、フランスの強い影響によりクレメンス5世が選出されました。
ボルドーにいた新教皇はリヨンで戴冠し、貴族間の抗争が激化しているローマに行くことを避け、シチリア王のアンジュ一家領フランスの勢力圏下でもあるであるアヴィニョン後に教皇領フランス、に居を構えたのでした。

それを知らぬ一兵卒にアルキメデスは殺害された

クレメンス5世以下のアヴィニョン教皇もフランス王の言いなりという訳ではなかったのですが、大量のフランス人枢機卿を任命し、テンプル騎士団の解体に同意するなど、フランス王の強い影響下にあったことは否めません。
歴代のアヴィニョン教皇はフランス出身とはいえ、フランス王の強い要求に従うことは不愉快でもあり、ローマ教皇はローマに居るのが当然という考えもあったでしょう。
またジャンヌダルクで有名な百年戦争によりフランス王の権力が弱まったことも寄与し、1420年、マルティヌス5世の際にローマにもどり、ローマ教皇復活となるのでした。

イタリアの芸術

イタリアと言えば芸術。例えば、ビザンチン様式、ロマネスク様式、ゴシック様式、ルネッサンス様式、バロック様式、ロココ様式、クラシック様式などなど、、、、、、何となく聞いたことがあるなという言葉ではないでしょう実は、イタリアの歴史をご理解いただくと、この芸術様式をもご理解いただくことができてしまうのです。
さて、ここからのイタリアの歴史は芸術を中心に進めましょう。イタリアの芸術はやはりギリシャの真似事からはじまります。神殿をたて、柱をたて、劇場を造り、彫像を造り、そしてそれが発展して、闘技場を造り、水道橋を造りと。
そしてここからはキリスト教と共に芸術は発展してゆくのでした。神に捧げる教会、この教会の建築様式がその時代の流行となってゆくのです。
まずはバジリカ様式紀元前から5世紀この様式はローマが東西に分裂するころまで続きます。
もとはギリシャの王の執務所として建てられた建物が、古代ローマ時代には、集会場、そして見本市などに使用され、それが後に教会へと発展してゆくのでした。
今ではほとんど見ることのできないこの様式。ビザンチン様式4世紀から紀元後395年のローマ帝国東西分裂。

ヨーロッパの土を踏んだとき

イタリア料理の順番は

東ローマ帝国、のちにビザンチン帝国と呼ばれるこの帝国を語るに際し、ビザンチン様式をお話ししない訳にはいかないでしょう。
ビザンチン様式とはコンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウムのちのコンスタンティノポリスに移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代に流行った建築様式をこう呼びます。
実は東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語だったのです。
12世紀までの東ローマ帝国はセルビア人·ブルガリア人といったスラヴ諸民族やアルメニア人などを内包する多民族国家でもありました。
此の様な文化的背景が、他には見ないビザンツ様式という物を作り上げたのでしょう。
特徴としてはキリスト教の宗教画を金のモザイクで描いたイコン芸術。
たとえば、トルコのアヤソフィア、シシリアパレルモの大聖堂、千代田区のニコライ堂、さらにはベネチアのサンマルコ寺院。
さらに東ローマ帝国滅亡後、北へ逃げた人々がロシアにキリスト教を広め、ロシア正教会となり、ロシアにもビザンツ様式の教会を見ることができるようになるのです。

      フィレンツェ·
      その設計がされたのが第二次大戦直後の荒廃からまだ回復していない一九四七
      イタリアではおなじみ
10月 13, 2018

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