ナポリ風リゾットはないローマ帝国時代にはその重要な一都市となり

ローマ侵攻を叫んだのでした

耐えられないほどまずい店と言うことはないでしょうが
また、カルタゴに同盟した、シチリアのシラクーサにも兵を進め、シラクーサ軍をたたきます。
なんとこの時代のシラクーサ軍の参謀長は数学者のアルキメデス。かの有名なアルキメデスはこの戦いでローマ軍により死に追いやられるのでした。
スペインのカルタゴ軍基地を蹴散らしたローマ軍は、余勢を克ってアフリカ大陸のカルタゴの本拠地に乗り込みます。
そして紀元前202年、ハンニバルと対決。この戦いはローマ軍の圧勝に終わり、17年間続いた第2次ポエニ戦争はローマの勝利で終結するのでした。
その後いったん破壊されたカルタゴを、紀元前44年、かのカエザルシーザーが地中海の要衝として再建します。
紀元後2世紀以降はアフリカ大陸におけるキリスト教の中心地として存在しますが、698年、アラブ軍の攻略により全滅、これによりカルタゴは歴史から完全に姿を消すこととなるのでした。
今でもチュニジアを訪ると、カルタゴの遺跡をご覧戴けます。

ユリウスカエサル/ジュリアスシーザ

正確にはガイウス·ユリウス·英名ジュリアスシーザーカエサルGaiusJuliusCaesar、前100から前44紀元前100年、ローマに生まれたシーザー。

カルタゴは地中海の東端に位置するフェニキア今のレバノンの植民地でした。
フェニキア人は航海に長じ、商売の大変丈夫な民族。貿易でもうけるには販路先、つまり植民地があった方がやりやすいと、カルタゴを建築したのです。
カルタゴに移り住んだ彼らは、農業を営みました。現地の住民を使っての奴隷制大農業でぶどう、オリーブ、果物などを作ったのです。
人口は増えに増え、20万人、30万人と増えてゆきました。ローマがやっと貨幣を使い始めた頃、カルタゴはとっくに皮製の通貨を持ち、金持ちはプール付きの豪邸で暮らしていたのでした。
このフェニキア人のことを、ラテン語(今のイタリア語、またはほとんどのヨーロッパの言語のもととなるもの)でポエニと読んだのでした。
紀元前264年、このカルタゴとの間で戦争が始まります。これがポエニ戦争。23年間もの長きにわたる戦争となりました。この戦でローマは初めて本格的な軍隊をつくり、苦戦を続けながらも勝利を勝ち取ったのです。
これによりローマは、今のシチリア、サルディーニャ、コルシカからカルタゴ軍を追い出し、ローマの属領としたのでした。
戦には敗れたものの、カルタゴがおとなしく引き下がる訳がありません。

イタリア人は人見知りをする割には人種を気にしないよう

カルタゴは地中海を挟んで対岸のスペインに軍隊養成、補給、情報収集のための一大基地をつくり、ここで力を蓄えた上でイタリアの攻略を目指していたのでした。
第一次ポエニ戦敗戦から4年後、カルタゴの運命を決する父子二人がこのスペインに向け旅立ちました。
父は雷将と呼ばれたハミルカル、息子は後に名将の名をもつハンニバルでした。
反乱部族との戦いで命を落としたハミルカルの後をついだハンニバル。
カルタゴ軍の長となった彼はそのとき弱冠26歳でした。父に従って8歳の時から兵営で暮らし、たたかうことしか考えなかったハンニバルは勇猛果敢でならし戦では常に先頭にたち、後退するときはつねにしんがりを務め、兵隊の評判は非常に良かったのです。
単に武勇に秀でているだけではなく、ギリシャ語、ラテン語に通じ、兵の信頼を.身に集めていました。
そして紀元前218年、このハンニバルを筆頭に、カルタゴ軍はローマ侵攻に乗り出すのでした。
ハンニバルの戦い前のページ歩兵5万、騎兵9000でイタリアに向かったハンニバル軍はフランスを通りアルプス越えにローマを目指したのです。
アルプスの南端といっても3000メートルを超えており、9月でも深い万年雪があり、ここを山越えするのは難業。

イタリア国内からの発信イタリア語学校は沢山あるし


EUの一員として他の欧州諸国との経済的関係が強まるにつれイタリア男たちが井戸端会議している光景さらに、ハンニバル軍はスペインやガリア今のフランスでの傭兵が多く、険しいアルプスを見て、まず3000人が尻込みをしたのでした。
ハンニバルはそれらの傭兵をいとも簡単に離隊させ、怖じ気づく7000人も帰国させ、精鋭部隊だけでローマを目指したのでした。
ハンニバルのアルプス越えを歴史的に有名にしたのは、騎兵隊の中にゾウ30頭が含まれていたからです。
深い積雪の中で一行は2日間休息し、15日間かかってゾウ共々アルプスを駆け下りたのでした。
このとき眼下に広がる今のイタリアの沃野を指差してハンニバルがあれはお前達のものだと兵士に叫んだそうです。
アルプスを超えたハンニバル軍は次々とローマ軍と戦闘を繰りかえします。
数ではローマ軍が圧倒的で、しかもローマの司令官はこれまた名将ぞろい。
しかしピエモンテの戦いでいったん勝利を収めたハンニバル、さらにこの戦いでローマの司令官に重傷を負わせます。
ローマ軍はいったん敗走、そして有名なカンネの決戦へと至るのでした。
戦法の古典となった天才ハンニバルによるハンニバル戦術を駆使しつつ、カルタゴ軍は勝利します。
しかし天才も時として勘の狂うことがあるのです。このカンネの決戦後、ハンニバルはいったん攻めを逡巡したのでした。
スペインをでてからの2年間の連戦の疲れを考えただけではなく、イタリアの諸都市が反ローマに立ち上がり、イタリア内部で自滅すると考えたのでした。
ところが思惑に反し、ハンニバルが逡巡している間にローマは軍の再編につとめ、カルタゴ軍の補給地、スペインの討伐に出かけるのでした。

ロムルスが誕生するのでした

また、カルタゴに同盟した、シチリアのシラクーサにも兵を進め、シラクーサ軍をたたきます。
なんとこの時代のシラクーサ軍の参謀長は数学者のアルキメデス。かの有名なアルキメデスはこの戦いでローマ軍により死に追いやられるのでした。
スペインのカルタゴ軍基地を蹴散らしたローマ軍は、余勢を克ってアフリカ大陸のカルタゴの本拠地に乗り込みます。
そして紀元前202年、ハンニバルと対決。この戦いはローマ軍の圧勝に終わり、17年間続いた第2次ポエニ戦争はローマの勝利で終結するのでした。
その後いったん破壊されたカルタゴを、紀元前44年、かのカエザルシーザーが地中海の要衝として再建します。
紀元後2世紀以降はアフリカ大陸におけるキリスト教の中心地として存在しますが、698年、アラブ軍の攻略により全滅、これによりカルタゴは歴史から完全に姿を消すこととなるのでした。
今でもチュニジアを訪ると、カルタゴの遺跡をご覧戴けます。

ユリウスカエサル/ジュリアスシーザ

正確にはガイウス·ユリウス·英名ジュリアスシーザーカエサルGaiusJuliusCaesar、前100から前44紀元前100年、ローマに生まれたシーザー。

ラクイラはイタリア半島を南北に貫くアペニン山脈の山裾の盆地にできた都市


ローマ人の痕跡はこの町にもあった
貴族の出なので家柄はいいのですが、貴族といっても父親はあまりうだつが上がらない貧乏貴族で、シーザーが16歳の時死去、そして良妻賢母の母親のもと育ちます。
当時100年間にわたったカルタゴとのポエニ戦争が終わって、半世紀近くがたち、世の中は古代ローマの平常時に戻っていました。
この時代の出世コースと言えば、ローマの元老院政府で名を挙げ、要職につくこと。
そのためには古代ローマの常として政略結婚、賄賂が当たり前で、金持ちでないと目立つ地位には就きにくい時代だったのです。
ならば、貧乏貴族の子はどうするのでしょう?金のかからない唯一の方法は名声を上げること、つまり戦場で活躍することです。
勇敢で馬術に長けたシーザーはこのようにして出世コースに乗ってゆくのでした。
貧乏貴族が故に部下と寝食をともにすることもいとわず、また勇敢で誰とでも平気で話し合い、さらに他人の失敗をとがめない寛容さのため、部下の評判は大変良好でした。
さらに長身、色白、しかし若はげ、黒い目、シーザーは18歳で初めての結婚をします。
そして死ぬまでに4人の婦人を迎えますが、愛人やちょっかいをだした女性は無数にいることから、若ハゲの女たらしというあだ名があったそうです。
23歳で政界入りし、元老院議員となります。執政ポンペイウスの地中海総指揮官就任に、元老院でただ一人反対するなど、気骨のあるところをみせ、注目され始めます。
32歳の時大富豪から借金をして選挙運動を行い、財務官に当選。スペインの反乱を鎮めて軍人として名を挙げます。3年後造営官となると、自前で派手な闘技大会を主催して市民の人気を集めます。
その後植民地スペインの高官に命ぜられ、辞令が発表されると、借金取りが大勢殺到して、「借金を払ってからでないと行かせないぞ」といきまくと、先の大富豪に再び大借金をして出かけ、見事反乱を鎮圧して巨額の戦利品を持ち帰り、それまでの借金を返済するなど逸話は多々。
さらには有力者ポンペイウスと、政略結婚を通じて近づき、着々と地を固め、39歳の時にはローマ政界の3すくみに乗じてポンペイウス、クラッススとともに第一次三頭政治といわれる時代を作ってしまうのですそして彼を世界史の中に名をとどめることとなるガリア制服にとりかかるのでした。

ペルージャに残ったペルジーノは

政界の頂点に達したシーザーは念願の植民地拡大を目指し、ガリア、今のフランスの全土掌握に出かけるのです。
そして今のスイス、フランスを8年がかりで完全に掌握。勝利のたびに戦利品、つまりシーザーの個人の財産が殖える仕組みにより彼は巨万の富を手に入れるのでした。
しかしこうした英雄の誕生は他の者のねたみを買ってしまいます。ローマの元老院議員の多くが反シーザー派になっただけではなく、縁続きでうまくやっていけると信じていた三頭政治の一人ポンペイウスがシーザーを蹴落とす作戦に出たのです。
といって、海外領土を一挙に増やした常勝将軍を理由なく追放はできないと、そこでポンペイウスは巧妙な作戦を考えつくのでした。
ガリア州総督をつとめるシーザーに対して、兵をつれてイタリアに入国させないと通告したのです。
ローマに戻るなら軍の指揮官を辞任しろと。つまり丸腰で戻れということで、これは当時の習慣では逮捕、処刑を意味していたのです。
彼は部下の兵をつれ、北部イタリアのルビコン川で立ち止まったのでした。
というのも、このルビコン川がイタリアとガリア植民地の支配権との境界線になっていたのです。
このまま総督の職を辞してローマにかえるべきか、それともローマに攻め入るべきか…と兵に問うと、部下は等しく、ローマ侵攻を叫んだのでした。
なぜならば、シーザー軍の大半はガリア出身で、彼は元老院の反対を押し切って、彼らにローマの市民権を与えていたのです。


イタリア男たちが井戸端会議している光景 イタリアのアブルッツォ州に存在していたという驚きは ギリシャ文化のように

7月 18, 2018

タグ: , ,