パレルモから海岸線に沿って

ミラノの郊外にビジェバノというこじんまりとした美しい町があるが

ボローニャ-ローマ帝国
ロシアモスクワにあります聖ワシリイ大聖堂はロシア正教会の聖地また、南に逃げた人々はギリシャへキリスト教を広め、これがギリシャ正教会となるのでした。
これが故にギリシャでも世界遺産、テッサロニキのアギアソフィア聖堂などのように素晴らしいビザンツ様式をご覧戴けるのです。
ロマネスク様式11世紀から13世紀10世紀後半、キリスト教発祥から1000年経ち、多くの教会が立て直しの時期となっておりました。
そこで古代のローマ帝国の建築をまねて創られた様式で、さらに前述のビザンチン様式の影響を受けて発展したのがこのロマネスク様式重厚な壁と盲アーチが特徴です。
盲アーチとは外壁の装飾として使われているアーチの列。さらには円筒ヴォールトと呼ばれる様式。これは天上を円形の物で支えるという様式で、これ以前の様式では決して見られなかった様式。
そしてモザイクからフレスコ画へと流行が移るのでした。モザイクとは今でもプールの底などに見ることができるもので、ガラス片を細かく砕きそれによって絵を描くものです。
そしてフレスコ画とは、フレッシュという言葉からきております。なぜならば、キャンバスとなる壁に石膏を塗って、完全に乾いてしまう前に絵を描き、石膏が乾くとともに絵の上に膜を張り、それによって絵画が保護され長期間美色を保つ:とができるという物ですゴシック様式15世紀から16世紀紀元後476年西ローマ帝国崩壊の原因となったゲルマン民族。
そしてこのゲルマン民族の一派であるゴート人。彼らはなにしろ野蛮と呼ばれる民族でした。当初、新たな建築様式は野蛮だ!と騒がれ、まるでゴート人のようだ!と。よってこの新たな建築様式はゴシック様式と呼ばれるようになるのでした。
ミラノの大聖堂などにみるような、天に昇れ昇れとばかりにのびる建築。
ョッキニョッキとのびる建築。
この地に根をおろしたとする説もある

狼のお乳を飲む子供の像がご覧戴けるのです
この高さを成功させるために生まれた技術が尖頭アーチ。ロマネスクの円筒アーチを発展させた物です。そしてそれだけでは天上を支える力が少ないので、今度は壁から支えるために開発されたのが、フライングバットレス。
上記の二つの技術のおかげで、壁を薄くすることに成功するのでした。
そしてその壁をくりぬき、新たにくわえられたものが、そう、ステンドグラス。
こうしてゴシック建築の特徴·築物ができあがるのでした。ニョッキニョッキと天に向かってのびる建築、そしてこれでもかとちりばめられるステンドグラス、さらにはガーゴイルと呼ばれる雨樋でもある魔除けなどはリ、神々い建この様式は16世紀頃まで流行ります。

ルネッサンス

そしてとうとうルネッサンスです。
上記のゴシック建築はさほどイタリアでは流行らなかったのでした。
そこで生まれたのがルネッサンス。再生、復活を意味する言葉で、文芸復興などのように建築物のみではなく、政治、経済、文化の各分野にわたる新しい運動をルネッサンスと呼ぶようになるのでした。
ローマ法王前の人間らしい、ギリシャ、ローマ文化をとりもどそうとする動きがルネッサンス。

ローマ帝国を

よって、中世キリスト教的束縛からの解放を目指したため、宗教画の天使がこれ以降子供の天使として描かれ始めるのでした。
このルネッサンスの中心となるのが、そう、芸術家のパトロンとなる裕福な商人が多く活躍したフィレンチェなのです。
これが、イタリアフィレンチェで、子供の天使を描いた土産物などが多い理由となるのです。
地上が中心という考えのもと、横幅の広い建物が土台となります。ではここからは芸術家を中心にお話を進めましょう。ニコラピサーノ1220まずニコラピサーノ。
海洋都市として栄えたピサ。このピサの洗礼堂を建築したのがこの町の名前を有するニコラピサーノ。
彼のもう一つの大作が、シエナの大聖堂の説教台ジョバンニピサーノ1245そして彼の息子ジョバンニピサーノ。
まだゴシックの色の濃い作品、しかし後のルネッサンスへの大きな影響を与える芸術家なのです。
代表作は、父親ニコラピサーノが建築したピサの洗礼堂のなかにある、素晴らしい説教台。
ジョット1267北イタリアのパドヴァのアレーナ礼拝堂内部にある東方三博士の連作で有名なジョット。
当時ほとんど奇跡とも思えた新しい表現の次元を芸術にもたらし、人物達があたかも現実空間に存在しているように描いた最初の画家なのです。
立体化、一歩進んだ芸術。イタリアルネッサンスの父とされている人物。ブルネッレスキとギベルディサンジョバンニ洗礼堂、竹内豊の映画”冷静と情熱のあいだ”で有名なあのフィレンチェ大聖堂ドゥオーモの正面にある洗礼堂。
1400年、そう、フィレンツェ、この東側の扉、後に天国への扉と呼ばれる、この扉の装飾コンクールが行われたのです。
立候補者は、ギベルディとブルネッレスキ。
ナポリ風リゾットはないローマ帝国時代にはその重要な一都市となり

駅前に並んで順番待ちをしているタクシーでもけたのでした

ゴシック様式の名残があるギベルディの作品、しかし新しい風を感じられる彼の作品が選ばれました。
落胆したブルネッレスキはローマへ赴きます。そしてパンテオンに刺激され彼は芸術の幅を広げていきます。そして1402年、今度はフィレンチェのドォーモのクーポラ丸屋根の部分を創るコンクールが行われるのです。
そして今度は、ブルネッレスキが総責任者として選ばれるのでした。
しかしのちに全権がまたギベルディにまかされることとなるのでした…しかしこの良きライバルとの競争が、のちにミケランジェロが絶賛する天国への扉を作り上げるのでした。
この素晴らしきライバル二人のおかげでイタリアルネッサンスがさらに成長してゆくこととなるのです。
ブルネッレスキとドナロッテこのブルネッレスキにはもう一つおもしろい逸話があります。
この時代のもう一人の有名な芸術家、ドナロッテ。彼の写実は本当に素晴らしい傑作木製のキリスト磔刑像を作成したドナロッテ。
この磔刑像をなんとブルネッレスキに、農民のキリストと卑下されるのでした。
憤慨するドナロッテ。しかし一人でブルネッレスキの家に行った彼は、そこで素晴らしいブルネッレスキの作品を目にするのでした。
「君にはキリストがほれるのに、僕には農民を彫ることしか許されないのか」ブルネッレスキの優れた芸術性を伝える逸話です。

世界史のなかでドイツとフランスに一大転機をもたらした大事件だった

フラアンジェリコ1455実は絵画とはキリスト教とともに発展した物なのです。
活字を読むことのできない人が多い時代、このキリスト教布教のために人々は聖書を絵画で表現したのでした。
これが、有名な美術館を訪れると、一番古い絵画のほとんどが宗教画である理由なのです。
実はフラアンジェリコはキリスト教、ドメニコ会の修道士だったのです。
修道士の大切な仕事の一つとして聖書の写本があります。彼はこの写本装飾から出発した画家なのです。そして宗教画で初めてパステルカラーを使用した画家として、イタリア絵画にかなりの影響を及ぼした芸術家です。
ピエロ1492初期ルネッサンスの芸術家の一人。
前述のドナロッテなどの最先端の画家に学んだものの、常に独自の世界を持つ孤高の巨匠。
彼の番有名な絵画は、ウルビーノ公爵の中でも最も名高い、そしてルネサンスにおける君主のお手本のような人物フェデリコ夫妻の肖像画でしょう。
そしてこのピエロの没した年1492年は、ヨーロッパ史においても重要なコロンブスが新大陸を発見した年でもあります。
これにより地球は丸いという説が立証されたのでした。
イタリアのアブルッツォ州に存在していたという驚きは

ミラノに戻ってから他の

フィリッポリッピ1469後述のボッティチェッリの師匠、フィリッポリッピ。
そして聖母像で有名なフィリッポリッピ。本職は僧侶、聖母マリア専門の画家。しかし女癖の大変悪い画家でもあったのでした。ボッティチェッリ151015世紀のフィレンチェを代表するフィレンツェ出身の画家。
春、ビーナス誕生をご覧になった方は多いのでは??2ll1レオナルドダヴィンチ1519画家であり、建築家であるだけでなく、解剖学、航空学、芸術理論、音楽、舞台美術など多くの分野で重要な発見や革新を導きだしたレオナルドダヴィンチ。
私生児として、フィレンツェ近郊のヴィンチ村で生まれました。14歳のころ、そのころフィレンツェで活躍していた芸術家ヴェロッキオに弟子入れします。
のちに彼は、彼の作品、キリストの洗礼で、ダヴィンチに左側の天使を描かせたところ、あまりの素晴らしさにヴェロッキオは筆をおったという逸話があります。
それほどまでにダヴィンチの才能は秀でていたのでした。彼のパトロンであったメディチ家が民衆によりフィレンチェを追い出されたのが、1494年。
そこで彼はミラノへ向かい、そして多くの作品を排出するのでした。
ミラノのサンタマリアデグラッツェ教会の食堂の壁画、最後の晩餐はもちろん皆様ご存知でしょう遅筆で有名なダヴィンチこの彼が編み出した方法がテンペラ画法です。

      昔はただアクイラだけ
      地下の墓地カタコンベで集会を開くようになる
      ヨーロッパなのだから使っているのが当たり前と思うのだが
3月 28, 2018

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