ヨーロッパの土を踏んだとき

ローマ数字の知識がないと

ローマの道の一つであるローマの富裕層に伝え
戦いに敗れ苦悩するアントニウスの心を癒してくれたのは、そうエリザベステーラー演じるクレオパトラのやさしい愛でした。
勢いに乗ったオクタビアヌスは、クレオパトラに使者をつかわし、アントニウスの引き渡しを要求します。
愛するアントニウスの将来を考えクレオパトラは申し出を承知するのでした。
ところがこの屈辱にアントニウスは使者をムチ打って追い返し、敢然と戦いを挑んだのですが、圧倒的な軍勢を誇るオクタビアヌス軍が勝利を納めます。
さらに敗れたアントニウスはこの戦いのすべての敗因はクレオパトラの裏切りにあると、いまにも彼女を殺さんばかりに激怒するのでした。
恐れをなしたクレオパトラはアントニウスの気を沈めるために、砂漠に眠る秘密の廟に身を隠します。
ある日、クレオパトラはアントニウスの愛を確かめるために、彼の怒りに苦悩するあまり自らの命を絶ったとの偽の知らせをアントニウスのもとに届けたのです。
アントニウスはこの知らせに深く悲しみ絶望に打ちひしがれ、剣の上に身を伏せ、彼女の胸の中で死ねるように衛兵に命じて、クレオパトラの秘密の廟に運ばせました。
運ばれてきた瀕死のアントニウスに、クレオパトラは悲しみの涙で頬を振るわせて、2人の運命の非情さを嘆き悲しみ、毒蛇を胸にあてがって、アントニウスの傍らに横たわると静かに息絶えるのでした。

奴隷がローマ市民になったのですから恩人に忠誠を誓うのは当然です。
部下の全面支持を得てついにシーザーは決断します。「諸君、サイはなげられた」こうしてシーザー軍はルビコン川をわたります。
時に紀元前49年、シーザー51歳。シーザー軍6000.ポンペイウス軍6万、しかしポンペイウスは,線も交えないうちにローマから抜け出したのでした。
こうしてシーザーはローマに無血入城、そしてポンペイウスを追撃。
ギリシャにて両軍は対戦しシーザーの勝利で幕を閉じます。さて、シーザーの素晴らしさ。それは当時捕虜を容赦なく処刑あるいは奴隷として売るのが当たり前というなかで、なんと彼は捕虜を自軍に組み入れ忠誠を誓わすのでした。
これがシーザー流。そしてなんとことのきの捕虜の中に、ブルータスがいたのでした。

クレオパトラとの出会い

ポンペイウスはエジプトに逃走します。
彼がエジプトにのがれたことが、シーザを運命的な出会いに引きずり込むのでした。
エジプト王プトレマイオス13世を頼ってエジプトに逃れたポンペイウス。
しかし、勝敗の推移をみきわめたエジプト王はポンペイウスを殺すのでした。
エジプトに乗り込んだシーザーはここでプトレマイオス王の姉クレオパトラに出会い、その美しさに一目惚れするのでした。
プトレマイオス王はシーザーに楯つき、エジプトで反乱が起きます。
クレオパトラは弟とたもとを分かってシーザーの方につきます。そして反乱軍を制したあとはクレオパトラをエジプト女王の座につけるのでした。
シーザーのエジプト滞在は9ヶ月におよぶのでした。そしてなんと二人の間には子供が誕生します。カエサリオンと命名。紀元前46年、やっとローマに戻り、独裁官ディクタトールに命ぜられ、それも当初の任期10年が終身にかわり、文字通りローマの最高権力者の座に上るのでした。
それでも各地の反乱を鎮めるために各国を飛び回るシーザー。紀元前45年やっとローマに凱旋し、こんどこそはローマに居座ろうとなんと最愛の女性クレオパトラとカエサリオンをつれてやってきたのでした。
ローマにはもちろん正妻がいます。複数の愛人はシーザーだけのことではなく、当時のローマの支配階級の常ではありましたが、その愛人が外国の女王となると話は別です。

イタリアと言えばまずスパゲッティを思い出すのもやむを得ないが

なんとこのクレオパトラの動向が政敵の怒りを買っていたのでした。
紀元前44年、元老院にでかけたシーザーは突然何者かに斬りつけられます。
素手のシーザーに抵抗力はなく、さらに周囲は皆反シーザー派で固められていたのでした。
そして刀を振るう二人の中の一人をみて、シーザーはあの有名な一言を残します。
ブルータス、お前もか、Jポンペイウス派であったブルータスはかつて命を助けたからだけではなく、実はブルータスはシーザーの子供だったと言われているのです。
若い頃愛人に生ませた子で、私生児ではありましたが、シーザーは自分の子だと認識していたとか。
シーザーの名は、ガイウスユリウスカエサルGaiusJuliusCaesarから今でも7月.JULYとして私たちの生活に根付いているのでした。
シーザーの葬儀は盛大に営まれ、フォロロマーナに神殿も作られました。
葬儀委員長はシーザーの片腕であったアントニウス。彼は後継者は当然自分と思っていたのです。ところが、、、シーザーの遺書を開くと、なんとそこには他の者の名が、そして新たな政争劇が始まるのです。
そして舞台は再びエジプト、そしてクレオパトラへ。

イタリアがPルKで決勝を争ったのもまだ記憶に新しぃところだろうし


自分が院長をしている病院で診察しているのはもちろんとしてローマ帝国やスペインに翻弄されることになります

エリザベステーラーの映画クレオパトラ

偉大な英雄ジュリアス·シーザーが暗殺されて4年、大ローマ帝国ではしばらくの平安が保たれていました。
シーザーの寵愛を受け、シーザーの甥オクタビアヌスとレピドゥスらとともにローマ帝国を統治していた武人アントニウス映画ではリチャードバートンが演じますは、いま北アフリカにおり、エジプト女王クレオパトラとの熱い恋に陥っていました。
彼は部下の信望厚く、その長けた統治力であまねく北アフリカをおさえていたのですが、本国イタリア各地では、内乱の兆しが見え始めていたのです。
ローマではアントニウスの妻と弟がなんとオクタビアヌスに戦いを挑み、不運にも破れ二人は殺害されたとの報がアントニウスのもとに届きます。
そんな中、三頭政治、これに反対するポンペイの反乱という事件が起きます。
アントニウスは急きょローマに戻り、3人の執政官の強固な結束をはたしてポンペイ軍を制圧するために、しかたなくオクタビアヌスの姉オクタビアと婚姻するのでした。
これによりポンペイ軍壊滅に成功。平安を取り戻したローマ帝国を後に、オクタビアの手を振り切って、クレオパトラのもとに走ると、オクダビアヌスは、このアントニウスの,族に対する侮辱と背徳行為に激怒し2人の住むアレキサンドリアへと巨万の兵を送り込んだのです。
この戦いはアントニウスの完全なる敗北に終わります。

置き引きの被害が23件届け出られています

戦いに敗れ苦悩するアントニウスの心を癒してくれたのは、そうエリザベステーラー演じるクレオパトラのやさしい愛でした。
勢いに乗ったオクタビアヌスは、クレオパトラに使者をつかわし、アントニウスの引き渡しを要求します。
愛するアントニウスの将来を考えクレオパトラは申し出を承知するのでした。
ところがこの屈辱にアントニウスは使者をムチ打って追い返し、敢然と戦いを挑んだのですが、圧倒的な軍勢を誇るオクタビアヌス軍が勝利を納めます。
さらに敗れたアントニウスはこの戦いのすべての敗因はクレオパトラの裏切りにあると、いまにも彼女を殺さんばかりに激怒するのでした。
恐れをなしたクレオパトラはアントニウスの気を沈めるために、砂漠に眠る秘密の廟に身を隠します。
ある日、クレオパトラはアントニウスの愛を確かめるために、彼の怒りに苦悩するあまり自らの命を絶ったとの偽の知らせをアントニウスのもとに届けたのです。
アントニウスはこの知らせに深く悲しみ絶望に打ちひしがれ、剣の上に身を伏せ、彼女の胸の中で死ねるように衛兵に命じて、クレオパトラの秘密の廟に運ばせました。
運ばれてきた瀕死のアントニウスに、クレオパトラは悲しみの涙で頬を振るわせて、2人の運命の非情さを嘆き悲しみ、毒蛇を胸にあてがって、アントニウスの傍らに横たわると静かに息絶えるのでした。

学習発表会と言って学芸会のような催し物があるのだが


時代の流れを整理していかないと頭が混乱してしまう

アウグストゥスオクタビアヌス

前63~後14さて、実はシーザーの遺言により、養子かつ相続人となったのがこのオクダビアヌスだったのです。
彼は騎士身分の父とシーザーの姪にあたる母から生まれました。シーザーの遺言のもと、紀元前44年、レピドゥス、そして前述のアントニウスとともに第二次三頭政治第一次三頭政治はシーザーとポンペイウスを成立させました。
レピドゥス失脚後はアントニウスを倒し、一人覇権を制します。紀元前27年元老院より、尊厳なる者という意味をなす、アウグストゥスという称号を与えられ、事実上帝政ローマ帝国を創建した人物となります。
そうです、ローマ帝国初代皇帝はこのアウグストゥスなのです。そして彼の名は今でもAugustオーガスト、8月として残っているのです。
さてシーザー時代からこのアウグストゥス時代にかけてのローマ帝国とはどのようなものだったのでしょうか?
まずはこの時代に多くの侵略を進めた結果、下記の地図でご覧戴けるほどの領土の拡大に成功したのでした。
紀元前290年紀元前240年紀元前14年この頃のローマ帝国は、国政のかじとりを行う元老院、貴族と平民の参政権をもつローマ市民全員で開かれる集会、平民だけで開かれる集会と、この三種の集会で物事が決められておりました。
またこれらの集会ははじめは野外で行われ、後に建物内で行われるようになり、さらには神殿が建築され、その神殿のなかで行われるようになったのです。
この神殿が多々建築された,体が今のフォロロマーノとなるのでした。
さらにこの時代ギリシャも完全制服。土地は征服したものの文化は征服できず、…ローマの富裕層の家庭教師として雇われた文化人は、ギリシャ人の文化をローマの富裕層に伝え、その教育のもと育った者がのちにローマを支えてゆくようになるのです。
さらに建築部門ではギリシアヘレニズムの彫刻コピーが流行します。
下記の2種類の像をご覧ください。ギリシャの彫刻は直線、そししてローマは曲線が多くなるのです。このような芸術をヘレニズムと呼びます。ヘレニズムとはギリシャ風の思想·文化のことで、ことにアレクサンダー大王在位紀元前336~323の東方遠征以降300年程の、ギリシャ文化と東方のオリエント文化との東西融合によるコスモポリタニズム型世界主義文化を指します。
この時代、軍事勝利を示すために凱旋門と像が多々創られます。

大いに楽しめるかも知れな戦後の名作映画自転車泥棒のイメージもあるのか

これがゆえに多くの皇帝の像が現存しているのです。さらにこの時代、自作農の没落が進みローマに人口が集中。これによりローマのスラム化が進みます。これらの人々にパンと見せ物を提供し、その熱気を政治に利用したのでした。
無料で劇場、闘技場を開放し、そして食料を無料で配り、そして人気を得て政治に利用する。
これに長けたのが、そう、シーザーだったのでした。そしてアウグストゥスの治世時。このアウグストゥスの右腕となったのが、アグリッパ。このアグリッパのもと町が栄え、浴場が作り出されるのです。のちの紀元後2世紀カラカラ浴場は今でも観光客が多々訪れる古代ローマ帝国の浴場です。
市民からの人気獲得のために建築されたもので、市民のための総合レジャーセンターとして浴場、体育館、図書館などが併設。
さらに入場料は大変安く、一時に1600人も収容可能だったのだそうです。
この浴場文化もギリシャ文明の流れからきたものであり、このローマ人の風呂の文化はのちに東ローマ帝国として栄えるトルコのハマムとして形を変えて現世に残るのでした。
ローマの東西分裂についてはのちに詳しくご説明いたします。また、建築技術に長けたため、レンガの都市から大理石の町へと変身します。


ローマ帝国やスペインに翻弄されることになります ローマ歴史的な名所が多く エノテカでの食事それぞれ店名に入っているのを見たことがある人もいることでしょう