交易の重心が大西洋に移るとともに経済的重要性をも手放した

ローマの常として政略結婚

ローマで番人気の高い観光地
そしてこの1512年に描かれたこの絵こそ、まぎれもないルーブル美術館のモナリザだと言うのです。
ユーモアのセンスのあるダヴィンチは前にジョコンド氏の注文で描いたときとまったく同じポーズを今度もモナリザにとらせたとか。
彼のこのユーモアを知っていたからこそ、モナリザはあんなに謎めいた微笑みを浮かべているのではないのでしょうか??バロック芸術とヴェネチア共和国前のページ舞台はフィレンツェからヴェネチアに移ります。
最も穏やかな共和国と知られた都市ヴェネチアは、世界最強の帝国のひとつであり、政治の中心地でもありました。
ヴェネチア帝国は北イタリアの国々と、東地中海の植民地を監督していたのです。
ヴェネチアの成功の理由は商業であり、世界の商業の交差点に位置し、強力な海軍によって海上を制していたのです。
すべてヴェネチアを通過するのでした。極東や中国、北アフリカ、そしてオランダからの貿易品は、スペイン、この勢いは東方への新しい海上ルートが発見され、新世界の探検が行われるようになるまで続くのでした。
バロックとは、歪んだ真珠を意味するポルトガル語です。実際、バロックの建築をご覧いただいた際に、外観の特徴としては、ねじれた柱、歪んだ真珠、歪んだ真珠と語りながらご覧いただくと、本当に歪んだ真珠に見えるのがこの建築様式です。
この日ようやく出会ったのだっあの白く輝く大理石のギリシャ彫刻ではない

ローマやミラノといった
これはあくまで私の感覚ではあるのですがリズムの中断舞台装置のようなファザード(正面.タマネギ型の屋根.ベルギーのルーベンス、レンブラントなどなどベッリーニとティチアー)そんな時代に著名な画家の家系に生まれ、敬虔なキリスト教徒であったベッリーニ。
のちのティチイアーノに決定的な影響を与えた画家です。さらには法王庁が最も好んだ芸術家でもあり、彼の代表作はヴァチカン·サンピエトロ大聖堂地下に眠るサンピエトロの墓です。
ティントレット先のティチイアーノの弟子であり、大規模な油彩画で有名なバロック画家。
彼の水色は本当に色鮮やかで美しく、バロック絵画の特徴を大変よく表しております。

ロココからクラシック様式へ

ロココ様式18世紀1730年頃のフランスで流行したのがロココ。
反バロックをめざし、安定を求める建築様式。貝殻と海藻を絡ませたような模様を表すフランス語が由来。ロココの語源はロカイユ、ロココは貴族や富裕市民の邸宅、宮廷建築から始まったのでした。
ルネッサンスの頃から王侯の庭園にグロット洞窟、または洞窟のような部屋を創ることが流行していたのです。
泉をもうけ、海神、海馬、人魚などの彫刻をちりばめたのです。この表現のために、しばしば怪奇的趣味にしたてあがったので、グロットのようなという意味のグロテスクという言葉が出来上がったのだそうです。
しかし、クラシック様式18世紀上記のロココの精神、反バロック、がさらに安定した物が次の時代の建築様式、クラシック様式となるのです。
時代はナポレオン。18世紀フランスから発祥しドイツへと移行してゆくのでした。ギリシャ神殿風のパリ士官学校ドイツ、ベルリンのブランデソブレク門イギリス大英博物館ロンドンナショナルギャラリバリエッフェル塔などなどそして20世紀にキュービックの世界へと突入するのでした。
そうです、今まで絵画というものは説明をする物だったのです。ところが、このスペインピカソのキュービック時代から、絵画は説明をする物ではなく、見る者が感情を持って鑑賞をするもの、そう、芸術にかわったのでした。
さあ、下記のピカソのゲルニカ、見ただけで絵画の説明がつくでしょうか?それとも皆様の感覚が絵画を理解するのに必要でしょうか??これが芸術なのだそうです。

ルネサンス後のイタリア

ルネサンス後の16世紀初頭、主要な通商路が地中海から大西洋に移ってしまったことで、イタリアは経済危機に見舞われてしまいます。

ローマにいる司教たちを召集して会議を開いた

イタリアのほとんどの弱小国家はスペインなどの外国勢力に敗れ、ミラノ公国やナポリ王国は併合されます。
そのほかのヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、フィレンツェ共和国等は生き延びはするのですが弱体化していったのでした。
SwitzerlanMantMilanModenaEMILIAGenoaFirenzeSienaPapalStateNapoliさらに1517年の宗教改革と教皇の軍隊の敗北により、教皇権の重要性は失われ、カトリック教会もまたひどく弱まります。
カトリック教会は宗教改革の波及を防ぐために、スペイン国王兼神聖ローマ帝国皇帝カール5世やその後継者たちの戦争を支持し、対抗改革と呼ばれる自己改革をおこなって、教会生活における厳格な規律を設けたのでした。
そんな時代に、イタリア出身の哲学者、ジョルダーノ·ブルーノがそれまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、1543年のコペルニクスの地動説を擁護します。
しかしこれが故に異端の宣告を受け、火あぶりの刑に処されたのです。
他にも天文学者のガリレオ·ガリレイも異端を宣告されました。カトリック教会によるこのような新しい知識や文化への締め付けは、その経済危機とも相まって、イタリアの文化的先進性を喪失させました。
その結果イタリアは数世紀の間没落の一途をたどらなければならなかったのでした。
18世紀のイタリアの政治的状況は、16世紀の時とほとんど同じでした。
唯,の違いは干渉してくる外国勢力がオーストリア帝国に変わったことです。
1768年ジェノヴァ共和国は、独立戦争が続くコルシカ島をフランスに譲渡します。
その翌年にコルシカ島で生まれたナポレオン·ボナパルトは、1796年にフランスの将軍としてイタリアに侵入してくるのでした。
当時ミラノ公国はオーストリア帝国の属国と化していました。また、エミーリアやロマーニャなどの教皇領北部も実質的には領主により支配されていたのです。
それらの国の住民は圧政に耐えかねてナポレオンを解放者として受け入れたため、戦局はナポレオン優位に動いたのでした。
この時中立という立場を取りつつもオーストリア軍に自国の領土の通過を許したヴェネツィア共和国は、ナポレオンの反感を買ってしまうのです。
ヴェネツィアは激しく目立った抵抗も出来ずにナポレオン軍の侵略を許し、オーストリアに譲渡されてしまうのでした。
1798年には教皇領のローマもフランスの手に落ちます。
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サルディーニャ

1805年、ナポレオンはオーストリアから奪ったヴェネト地方、エトルリア王国などを統合し自身を大統領とするイタリア共和国を建国し、残るナポリ王国も妹婿のミュラに委ね、イタリア半島はナポレオンによりほぼ統一されたことになるのです皇帝になるとともに共和国はイタリ王国となるのでたところが、ナポレオン失脚後の1814年のウィーン会議によって、北東部の旧ヴェネツィア共和国領と旧ミラノ公国のロンバルディアはオーストリア帝国の属国となり、旧ジェノヴァ共和国を含む北西部とサルデーニャ島はサルデーニャ王国、半島南部とシチリア島は両シチリア王国、トスカーナ大公国,教皇領、その他中央部にいくつかある小国というようにイタリアは再度分割されたのでした。

近代イタリア

1848年にはイタリア各地で1848年革命が勃発し、革命派の軍による支配国オーストラリア帝国への反発が始まります。
1859年、サルデーニャ王国が、フランス皇帝ナポレオン3世との会談により同盟を結んでオーストリア帝国を攻撃、ロンバルディアを略奪するとともに、トスカーナを含むイタリア中部の諸領域の併合にも成功したのです。
そして1860年、ジュゼッペ·ガリバルディは千人隊赤シャツ隊を創設して、シチリアやイタリア南部へ遠征に向かい、その当時のイタリア南部を征服していたフランスブルボン朝の軍を何度も打ち破って征服に成功。

イタリアの不思議な所は

そしてその領土をサルデーニャ王ヴィットーリオ·エマヌエーレ2世に無償で献上し、イタリアの大部分はサルデーニャ王の元に帰せられたのでした。
これが故にイタリア国内どこにでも彼の名前が残っているのです。たとえば、ミラノの町中にあるアーケードの名前は、ヴィットーリオ·エマヌエーレ2世のガッレリア。
これがイタリア統一戦争と呼ばれるものです。1861年、統一国家としてのイタリア王国の成立が宣言。1861年3月に統一を成し遂げたイタリア王国は、1866年の,,戦争フランスとオーストリアの戦いに参戦し、イタリアは結果的には勝戦国となリヴェネツ17を獲得。
さらに1871年の普仏戦争フランスとプロイセンの戦いではブロイセン側について戦勝国となりローマを併合·同市を首都として遷都するのです。
この結果ローマ教皇との政治的対立が発生し、これは1929年のラテラノ条約の締結まで続くこととなります。
オーストリアとの三国同盟を対外政策の基軸としていたのですが、オーストリアとの間には、トリエステ、南チロルなどに代表される未回収のイタリア問題というものがあり第一次世界大戦直前はドイツ、たのです。
そのため大戦中期の1915年、イギリス·フランスと未回収のイタリア問題の解決を含んだロンドン秘密協定を結び、なんとドイツ、オーストリアに対抗する協商国側として参戦したのでした。

シエナの貴族ピッコロ-ミニ家が最初に目をつけ

ローマ帝国と一体のものと考えていました

そのため戦勝国となったイタリアは、パリ講和会議でオーストリア·ハンガリー帝国から領土を獲得するとともに、日本の提案した人種差別撤廃案に賛成したのです。
そして戦後に発足した国際連盟の常任理事国となりました。しかし、いわゆる未回収のイタリアとしてトリエステ、南チロル、イストリア半島は獲得できたものの、今のクロアチアのダルマチアや港湾都市リエカを併合することはできず、国民の不満を残したのでしたまた、総力戦となった大戦はイタリア経済に過度な負担となり、戦争後には深刻な不況へと突入します。
街には失業者と復員兵が溢れかえり、都市部では労働者の争乱、農村部では貧農の暴動が多発しました。
イタリア国民はこの戦勝国とは思えぬ悲惨さを名誉なき戦勝国と自嘲的に評したのでした。

イタリアファシズム/ムッソリーニ

こート·ムッソリー第一次大戦では主戦論を主張し、イタリア社会党を除名させられたムッソリーニは右翼的·左翼的思想の両方の影響を受けたファシズム思想を提唱しはじめます。
それは「イタリア戦闘者ファッシ」とよばれのちに国家ファシスタ党へ改組。
そして1922年10月にローマ進軍となるクーデターを実行するのです。
当時の内閣は国王に戒厳令布告の署名を求めますが、なんと王は逆にムッソリーニへ内閣の組閣を命じ1943年まで約20年間に亘り続くファシスト政権が誕生するのでした。
このファシズムは世界各地に波及し、英米仏など後の連合国側にもファシスト政党は誕生し、スペインのフランコ政権、ポルトガルのサラザール政権などが誕生するとことなるのでした。
さらに“本家”イタリアが大戦の敗北でファシスト政権が幕引きとなったあとも戦後70年代後半まで存続する事となるのです。
1929年、ローマ教皇庁のガスパッリ枢機卿とラテラノ条約を結びます。

      イタリアの国際免許を取った経験があり
      何を買っても金額の桁数が多いことと
      ミラノの歩道には屑入れが沢山設置され
11月 6, 2018

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